昔の男は、歯磨きが趣味だった。
外国製のフロスや当時まだ珍しかった糸ようじを仕入れてきては、これで歯医者とは縁切りだ、などとほくそ笑むのが常であった。
結局は、やりすぎ、磨きすぎだとかかりつけ医に叱られるのがオチなのだが。
うまくいかなくなったのは、水道代でもめたのだ。多分。
美しい歯の男は、しかし、垂れ流していた。
蛇口閉めてよ、と度々大声を出すのにも疲れ、散らかった糸ようじの束にも飽きて、晴れではなかった夜に、ふたりは終わった。
好きが大嫌いになる。
または、好きだったという事実も感覚も忘れる。
なのに、受け取っていた。
「禍」が始まった翌年、混雑していないかどうかをアプリで確認し、ドラッグストアに向かった。
「ワイヤータイプの歯間ブラシ、奥歯用のピック、フロス」
メモを見ながら、昔の男が使っていたものより小さめのサイズを選ぶ。
今日の買い物はそれだけだ。
水を垂れ流す人はいなくなったのに、趣味だけがいつの間にかこちら側へとやってきた。
好きが嫌いになり捨てたはずなのに、うっかり拾い集めてしまう。
未練と笑うなら笑え、とばかりに鏡に向かって大きく口を開けた。